Father Tomáš Halík (1948 - )
Father Tomáš Halík is a professor of sociology at Charles University, Prague, president of the Czech Christian Academy and a university chaplain. During the Communist regime he was active in the underground church. He is a Templeton Prize laureate and holds an honorary doctorate from Oxford University.
Christianity in a time of sickness
病の時代のキリスト教
Tomáš Halík
published on the website of the Jesuit Review America the 3rd April 2020
我々の世界は 病んでいる.
わたしが言っているのは,コロナウィルスの全世界的流行のことだけではなく,この全世界的な現象において明かされた我々の文明の状態のことである.
例年とは異なるこの四旬節が始まったとき,我々の多くは こう考えていた:この疫病は,短期間の「停電」— 社会の通常の営みの一時的な中断 — をもたらすかもしれないが,まもなく 事態は すべて 普段どおりに復帰するだろう.しかし,時がたつにつれて,現実がより明らかになってきた:そうはならないだろう.そして,そうなるように我々が努力しても,うまく行かないだろう.この全世界的な経験の以後,世界は,以前とは同じではないだろう.そして,おそらく,以前と同じであるべきではないだろう.
大災害のとき,我々は,当然,まず,生存のために必要な物質的なものを気に掛ける.しかし,我々はパンだけで生きるのではない.今や,我々の世界の安全性に対するこの打撃のより深い含意を検討するときだ.全世界の一体化の不可避的過程が頂点に達したように思われる.一体となった世界の全世界的な脆弱性が,今や,一目瞭然である.
キリスト教と教会と神学 — 教会は,歴史上 最初の全世界的立役者のひとりである — にとって,この状況は 如何なる難問を表わしているのか?
教皇 Francesco が述べたように,教会は「野戦病院」であるべきだ.教会は,俗世から輝かしく孤立した状態に引きこもっているべきではなく,俗世と聖域との境界線に捕われることなく,人々が身体的に,心理的に,社会的に,精神的に苦しんでいるところへ助けに出て行くべきだ.そのようにして,教会は,最も無防備な人々に対して教会の代表者たちがつい最近まで為してきた加害行為[小児や女性に対する聖職者による性的虐待のこと]に対する贖罪を果たし得る.しかし,この「野戦病院」という譬えについて,より深く考えてみよう.そして,それを実践へ移してみよう.
もし教会が病院であるべきなら,教会は,勿論,健康を提供せねばならず,教会が歴史の夜明け以来提供してきた社会的なケア — 隣人愛にもとづくケア — を提供せねばならない.しかし,教会は,ほかの課題をも遂行せねばならない.教会は,診断的な役割(「時代の徴」を同定する役割)をも,予防的な役割(恐怖,憎悪,大衆迎合政治,国粋主義などの悪性ウィルスが蔓延する社会のなかに免疫システムを作る役割)をも,病後の回復を助ける役割(過去の外傷経験を赦しによって克服する役割)をも果たさねばならない.
昨年の復活祭の直前,Notre Dame de Paris が火災にあった.今年の四旬節には,いくつかの大陸の何十万もの教会において,ミサも礼拝も行われていない.ユダヤ教のシナゴーグにおいても,イスラム教のモスクにおいても,同様だ.わたしは,司祭および神学者として,この無人の教会 — あるいは,閉鎖された教会 — を,神から送られた徴として,および,神により措定された難問として,捉え,そして,それについて省察する.
我々の世界に起こる出来事のなかに神のことばを読み取ることは,spiritual discernment[神の息吹に導かれた分析作業]の技法を要請する.そして,spiritual discernment は,我々が黙想において〈我々自身の高ぶった感情から,我々自身の先入観から,我々自身の恐怖や欲望の投射から〉距離を取ることを要請する.災害のとき,「残酷に報復する神」のイメージは,恐怖を広める.そのような神のイメージは,幾世紀にもわたって,無神論を益してきた.
災害のとき,わたしは,神を〈我々の世界の出来事が展開して行くとき,舞台裏で安楽に座したままの 不機嫌な〉舞台監督とは見ない.そうではなく,わたしは,神を〈災害の状況において 連帯と自己犠牲的な愛を表現する人々(勿論,自身の行動のために「宗教的な動機づけ」を有していない人々をも含めて)において作用する〉力強さの源と見なす.神は,謙虚で 慎み深い 愛 である.
しかし,わたしは,次のような懸念を抱かずにはいられない:〈我々が 今 一時的に経験している〉閉鎖された無人の教会は,〈かなり近い未来に生じ得ることを警告する〉ある種の預言的イメージではなかろうか ? 我々の世界の少なからぬ部分において,数年以内に,そのようになっているかもしれない.実際,多くの国々において,〈空[から]になり,閉鎖される〉教会,修道院,神学校は,どんどん増えている.そのような事態の展開から,我々は,多くの警告を受けている.なぜ 我々は かくも長い間 そのような事態の展開を 外的な要因(世俗化の津波)に帰し続けているのか — キリスト教の歴史において,またひとつの章が終わりつつあり,今や 新たな章を準備するときだ,ということに気づかぬままに?
おそらく,今 一時的に無人になった教会の建物が 象徴的に表わしているのは,教会の〈隠された〉空虚であり,その可能な — もし 我々が〈キリスト教の《従来とはまったく異なる》一面を 世界に見せる〉真摯な試みを怠るならば 起こり得る — 未来である.我々は,世界を回心させることばかり考えてきたが,我々自身を回心させることをあまり考えてこなかった.かかわっているのは,単なる「改善」ではなく,しかして,根本的な変化 — 静的な「クリスチャンである」ことから 動的な「クリスチャンになる」ことへの 変化 — である.
中世において,教会は,禁止を 処罰として 濫用した.そして,その禁止が 聖職者階級全体による「ゼネスト」のようになったとき,ミサは行われなくなり,秘跡も授けられなくなった.そのとき,人々は,ますます,神との個別的な関係を探し求めるようになった.非聖職者たちによる修道共同体 や 神秘主義が 増殖した.この神秘主義の高揚は,決定的に,宗教改革への道 — Martin Luther や Jean Calvin によるプロテスタントの宗教改革だけでなく,イェズス会とスペインの神秘主義に連関するカトリックの宗教改革への道 — の準備を 手助けした.おそらく,「黙想」の発見は,新たな改革的公会議への synodal path[cammino sinodale : ともに歩む道]を整えることを助けただろう.
おそらく,我々は,今 我々が経験している 公開ミサの中止や教会機能の停止を,ひとつの καιρός として — 立ちどまって,神の前で,神とともに,徹底的な省察に取り組む好機として — 受け取るべきだろう.わたしは,こう確信している:今や,いかに 改革の道を続けるかについて省察すべき時が到来したのだ — 教皇 Francesco がその必要性を強調している改革の道を:すなわち,かかわっているのは,もはや現存しない世界への回帰を試みることでも,単なる外的な構造改革に頼ることでもなく,しかして,福音の核心へ移行することであり,「深きところへの旅」である.
いったい,我々は「ヨーロッパ等の多くの地域における司祭の不足を〈ポーランドやアジアやアフリカから司祭を『輸入』することによって〉解消し得る」と 本気で考えていたのだろうか ? 勿論,我々は,アマゾニアをテーマにして行われたシノドスにおける提案を真摯に受け取らねばならない.しかし,我々は,同時に,教会における非聖職者の司牧機能について,より広い視野を提供する必要がある.多くの地域において 教会は 幾世紀にもわたり 聖職者なしで存続してきた,ということを忘れないでおこう.
おそらく,現在の緊急事態は,教会の新たな顔 — その歴史的な先行事例を,我々は有している — を指し示すものだろう.わたしは,こう確信している:キリスト教徒たちの共同体,小教区,修道会,活動,修道院共同体は,ヨーロッパにおいて大学 — そこにおいては 真理が 自由な議論によって および 深い黙想にもよって 探し求められるところの 学生と教師との共同体,知恵の学校 としての大学 — を誕生させた理想へ より近づいて行こうとすべきである.そのような精神性と対話の島々は,病む世界にとって癒しの力の源となり得るだろう.Jorge Bergolio 枢機卿は,教皇に選出される前日,啓示の書[ヨハネ黙示録]の一節 (Ap 3,20) — Jesus が扉の前に立ち,ノックする一節 — を引用して,こう付け加えた:「今,Christus は,教会のなかから扉をノックし,外へ出て行きたがっている」.
幾年もの間,わたしは,Friedrich Nietzsche の有名なテクスト:『狂った男』(『喜ばしい学知』125 節)について考察してきた.その狂った男 — ただひとり 真理を語ることを許された道化 — は,「神は死んだ」と告げ知らせる.そのテクストの終りは,こうである:狂った男は,いくつもの教会に来て,Requiem aeternam deo[神に永遠の安らぎを]と歌う.教会から連れ出されて,なぜそのようなことをするのかと問われると,彼は ただ こう答える:「これらの教会は,神の墓と墓石でなければ,いったい何なのか?」.実際,長年にわたって,わたしには,さまざまな形の教会は 死んだ神の冷たい豪華な墓碑のように見えていた,ということを,わたしは認めねばならない.
今年の復活祭[4月12日 — Halik のこの記事は04月03日付]には,我々の教会の多くは空[から]であるかのように見えるだろう.我々は,Jesus の空[から]の墓について物語られている福音書の箇所を読むだろう.教会が空[から]であることが空[から]の墓のことを想起させるなら,天使の声のことも忘れないでおこう:「彼は ここにはいない.彼は 復活した.彼は,あなたたちより先に,ガリラヤに行っている」.
今年の異様な復活祭に際して,省察を刺激する問いを措定しよう:今日のガリラヤはどこにあるか?どこで 我々は 生きている Christus に出会うことができるのか?
社会学的な研究は,このことを示している:世界中で,信ずる者(伝統的な形の宗教に完全に与している者,および,教条的無神論を主張する者)の数は減少しており,他方,探し求める者の数は増加している.さらに,"apatheist" — 宗教的諸問題やそれらに関する伝統的な答えに対してこの上なく無関心である人々 — の数は,勿論,増加している.
おもな境界線は,もはや,信者を自認する者たち と 非信者を自認する者たち との間に引かれてはいない.探し求める者は,信者たち(信仰を,できあがった形において他者から与えられるものとしてではなく,みづから探求する道として捉える信者たち)のなかにもおり,また,非信者たち(他者から提示される宗教的諸観念を拒否するが,にもかかわらず,「意味」に渇く心を満足させ得る何かを熱望している非信者たち)のなかにもいる.
わたしは,こう確信している:今日のガリラヤ — 死の後も生き続ける神を探し求めるべきところ — は,探し求める者たちの世界である.
解放の神学は,社会の辺縁に生きる人々のなかに Christus を探し求めるよう,我々に教えた.しかし,教会のなかで差別されている人々のなかに Christus を探し求めることも 必要である.Jesus の弟子として,我々が彼れらと繋がろうと欲するなら,我々がまず放棄すべきことが たくさんある.
我々は,我々が Christus に関して 従来 有してきた 多くの観念を,放棄せねばならない.復活した Christus は,死の経験によって,根源的に変化した.福音書のなかに物語られているように,彼に最も近しく,最も親しい者でさえ,彼を彼として認め得なかった.我々は,我々を取り巻く知らせを受容する必要は まったくない.我々は,彼の傷に触れたいと言い張ってよい.そもそも,世界の傷と教会の傷 — 彼が身にまとった身体の傷 — において以外に,どこにおいて,我々は,復活した Christus に確実に出会うことができるだろうか?
我々は,新たな信者を獲得する目的を 放棄せねばならない.探し求める者たちの世界に我々が入るのは,彼れらをできるだけ早く回心させ,我々の教会という既存の制度的,心理的な枠組みのなかに彼れらを押し込めるためではない.Jesus も また,「イスラエルの家の迷える羊たち」を 彼の時代のユダヤ教の構造のなかに再び押し込めようとはしなかった.彼は,新しいワインは新しい革袋のなかへ注がれねばならないことを 知っていた.
我々は,我々に託された伝統の宝庫から新しいものも古いものも取り出してきて,それらを,探し求める者たちとの対話 — そこにおいては,我々は 皆 互いに学び合うことができ,また,そうすべきである — のなかで利用する必要がある.我々は,我々の教会論の限界を根本的に広げることを学ばねばならない.非信者たちのための居場所を寛大にも開いてやる ということでは,もはや十分ではない.主は,既に,教会の内側から扉をノックし,外へ出てしまった.であれば,我々の仕事は,彼を探し求め,彼の後を追うことである.Christus は,我々が他者を恐れて閉ざしてしまった扉を 通り抜けてしまった.彼は,それによって我々が我々自身を囲い込んでいたところの壁を 通り抜けてしまった.彼は,ひとつの空間を開いた.その空間の広さと深さは,我々に眩暈を起こさせた.
ユダヤ人と非ユダヤ人とからなる初期教会は,その歴史の始まりかけのときに,イェルサレムの神殿 — そこにおいて Jesus が祈り,弟子たちを教えた神殿 — の破壊を経験した.当時のユダヤ人たちは,勇敢な — かつ 創造的な — 解決を見出した.彼らは,破壊された神殿の祭壇の代わりに,家庭のテーブルを用い,そして,いけにえの儀式の代わりに,祈り — 個人的な祈りと共同体の祈り — を実践した.焼き尽くすいけにえと血のささげものの代わりに,省察と賛美と聖書の研究を行った.同じころ,初期キリスト教は,シナゴーグから排除されて,自身のあらたな自己同一性を探し求めた.伝統が廃墟となった状況において,ユダヤ人たちとクリスチャンたちは「律法と預言者」を新たに読み直し,新たに解釈し直すことを学んだ.今日,我々は,同様の状況にあるのではなかろうか?
西暦 476 年(ないし 480 年)に西ローマ帝国が滅びたとき,即席の説明が多方面から為された.非キリスト教徒たちは,それを,キリスト教を国教としたことに対する神々の処罰と見なした.他方,キリスト教徒たちの多くは,それを,ローマに対する神の処罰と見なした.聖 Augustinus は,それらの解釈をいずれも退けた.あの歴史の分け目の瞬間,彼は,相対立するふたつの都市の間の〈長年にわたる〉戦いの比喩を用いる神学を展開した.その場合,相対立するふたつの都市とは,キリスト教徒の都市と非キリスト教徒の都市ではなく,しかして,人間の心に住むふたつの愛のことである — 超越に対して閉ざされた自己愛 (amor sui usque ad contemptum Dei) と 神を見出す非利己的な愛 (amor Dei usque ad contemptum sui). 文明が変化しようとしている我々の時代は,現代史の新たな神学と新たな教会論を要請している.
「我々は,どこに教会があるかを知ってはいるが,どこに教会はないかを知らない」と ロシア正教の神学者 Paul Evdokimov (1901-1970) は教えた.おそらく,第二ヴァチカン公会議がカトリック教会と ecumenism について言ったことは,より深い内容を獲得する必要がある.今や,より広く より深い ecumenism のときであり,すべての事象のなかに より大胆に神を探し求めるときである.
我々は,勿論,この四旬節を — 沈黙した無人の教会の四旬節を — ほとんど,やがて忘却さるべき短期間の一時的な措置以上のものではない,と受け取ることもできる.しかし,我々は,それを,我々の目の前で根本的に変わりつつある世界におけるキリスト教の新たな自己同一性を探し求める好機と捉えることもできる.現在の COVID-19 の全世界的流行は,確かに,今 および 将来 我々の世界に襲いかかってくる唯一の全地球的な脅威ではない.
近づきつつある復活祭を,Christus を新たに探し求める機会として捉えよう.永遠の命を生きている者を 死んだ者たちのなかに探さないでおこう.大胆に かつ 粘り強く 彼を捜し求めよう.そして,もし彼が見知らぬ者の姿で現れるとしても,たまげないでおこう.ある人が Christus であることに我々が気づくのは,その人の傷によってであり,その人が我々に親密に話しかけてくるときの声によってであり,平和をもたらし 恐怖を消し去る 神の息吹によってである.
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